★16時発の飛行機で〜
普段ブログでは
父に関して触れることはあまりなかったのですが
私の覚書として少しいて書いておこうと思います
( パッチワークじゃないのでスルーでも構いませんょ )
仕事は日本通運で定年まで勤めていました
若い頃は長距離トラック運転手で
今の様な高速道路がまだまだ整備されていない時代。。。でした
日数をかけて運んでいたそうです
歳とってからも一緒に遠くまで出かけると
道に詳しかったのが思い出されます
私が高校卒業後、
神戸で3年間の専門学校〜そして結婚する頃までの(数年間)
当時両親と死別した
近くに住むA子ちゃんを直ぐに引き取って
里親となり母と弟と一緒に生活をしていました
今
改めて思うと本当に心の広い優しい人だったんだなぁと。
退職してからも
地元のバス運転手、工場のボイラーマン 福祉施設のドラーバーと
本当によく働いてくれました
お酒とタバコがと料理する事が大好きで
晩年は
身体を壊すのではないかと飲んで飲んで
もうお迎えも近いから
好きに飲ませてくれとか言っていたのが懐かしいです
沢山の愛情を注いでくれて
結婚してからも色々と力になってくれた父には感謝しかありません
5月3日にサービス付き高齢者住宅に入居したときは
かなり弱っていたので心配していましたが
その後少しずつ元気になってスタッフの方々ともお話ししたりと
明るく生活をしていました
コロナ禍なのでなかなか思うように面会にも行けずでしたが
7月20日に母と一緒の時間を作ってもらい
話せました
お父さん〜とにかくよう働いたなぁ(たくさん働いたなぁ)、、と言う
母にも おまえもよう働いたと褒めてもらったそうで
よう世話になったなぁ~
また死ぬまでに会いに来てなぁとも言っていましたが
それは叶いませんでした
最後に出会ったのが主人で。。。少し話して
じゃぁ帰ります〜と言うと
また来てなぁと、、、ベッドでわざわざ少し首をあげて見送ってくれたそうです
その数日後
ベッドでの夕食時〜(8月26日)
担当スタッフがご飯を食べながら何度も何度も言ってた言葉
今日は神社に行かないとあかん
神社に行かないとなぁでした 普段そんなこと言わない父なので
よく覚えていたらしいです
次のオムツ交換には息がなかったようでした
肺機能がずっと低下していたので最後は
慢性肺不全で亡くなったと聞いています しかしベッドで苦しんだ様子もなく
静かに旅立ちました
そして先程、息子は
16時に羽田空港からシアトルへ帰って行きました
みんなにありがとう〜
今日も1日ありがとうございます
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